更新日: 2010-09-12 03:00:23

実現概念

著者: ebmnbm

編集者: ebmnbm

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はじめに

 私はこんなみょうちきりんな言葉を生まれてこのかた聞いたことが無い。しかし私の疑問はこの本を読んで、払拭された。要はこの言葉は偉大なる哲学者たちの真理をこねくり回して、作られた単なるつまらない言葉なのである。こんな言葉はふざけている。こんな概念は哲学に通暁しないものが作り出した馬鹿げた言葉遊びである。
 では、前置きも終わったことであるし、少しながらこの言葉の説明をしよう。述べておくが、私は好んで、こんなことをするのではない。私は真理を追い求める狩人である。したがって、いやいやながらも私はこのまがい物を論破するのである。これは宿命である。パンを食うために哲学する人間を排除するために行なわれる裁判である。このことに何の欺瞞も無い。少なくとも哲学するものは、哲学を真剣に志すものはこのような行為を許してはならない。それはデカルト以来の宿命である。彼が哲学の権威を神学者から奪取し、この世に復活せしめた。その系譜を受け継ぐものは誰しも、この執行を執り行わなければならないのである。
 さて、この言葉は簡単に説明すれば、人が外界から受けた印象を概念と結びつけることを言う。これは私の呼んだ本の中でも下位のものであり、哲学者が補足程度に行なっているものである。私はこれと共通したものをカント、ショーペンハウアーの本の中で見出す。もっともその前にプラトンの曖昧なイデア概念、アリストテレスの「形而上学」第一巻、第一章の中でもそのことはちらほら述べられている。そしてこれは現代医学の観点から言っても、容易に説明が出来る。人の脳の中に概念が形成されるまでには、大きく分けて三つの段階がある。一つ目は感官に外界の現象が作用する。続いて末梢神経、内分泌腺等の諸器官がそれらの情報を脳に伝える。これが一つ目である。二つ目は、漠然とした観念が主観的に発生する。ここには主に脳幹、本能的諸行為をつかさどる脳の中軸部分が関与している。またこれはパブロフが「大脳半球の働きについて」で述べた反射と言う概念の基にもなっている。形而上学的に述べれば、直観と呼ばれる行為と脳幹の部位が深く連関している、と言える(またショーペンハウアーの説く悟性もこの機能の派生である。もっとも彼は私の説明より細かく、自然科学者が先見的に持つ、因果律の把握についても述べている。)。簡単な臨床結果資料を挙げれば、重篤広汎な脳疾患に際して認められる状態像で、脳幹の生命機能が侵されずに維持され、例えば覚醒睡眠調節機能は健康者と同様であり、したがって何らの「意識喪失」をも発生しないが、形態機能全体がほとんど消失し、そのため対象認識も行動の遂行も言語形成も不能となる場合がある。このような患者は横にはなってはいても、目を見開いて覚醒しており、周囲からの刺戟に対しては痕跡的な原始反射をもって反応する。けれども理解したり、話したり、意味のある運動を営んだりすることはできない。この場合脳幹機能が維持されているのに大脳外套の機能が高度に侵されているので、この状態は失外套症と呼ばれる。これは脳幹と観念形成機能が結びついていることを示している。いわゆる観念とは動物にも起こる視神経が関与していない状況時の、外部からの刺激に対する反射、視覚をのぞいた四官から伝わる情報を基にした条件反射の結果だと言える(しかし私はこれより深く、医学的にこの問題を解き明かせない。なぜなら今の私にはこの問題を解く前に前提とされる知識、思索が欠けているからである。)。ショーペンハウアーの「視覚と色彩について」、ゲーテの「色彩論」も私の見解と根本的に一致する。ただしニュートンが「光学」で述べている見解と私の見解は、一致しない。そして観念の形成に必要な器官はコルサコフ症候群に罹った場合にも、最後まで残る。

STEP1

 三つ目の段階は簡単である。この段階に至れば、人間特有の高度に発達した前頭葉が関与してくる。おそらく側頭葉の一次運動野もわずかながら、概念形成に関与しているであろう。(特に顔面に起こる感情発露、笑った時や悲しんだ時の表情。これらは明らかに概念、すなわち言葉によって喚起されるものである。)海馬を含めた人間の前頭葉をもってして、初めて概念の形成は成り立つ。その概念の成り立ちを哲学的、医学的に仔細に観察すると、まず記憶と呼ばれる機能が目に付く。観念と概念が海馬の中に蓄積されるのは周知の通りであるが、より細かく観察すると、観念の方が概念より印象的であり、概念より簡単に海馬内に蓄積される。これは本で学んだ知識より、自然のきれいな風景を見て得られる直観的記憶の方がより記憶に残されやすい、と言うことである。だから若き日のレッシングも本を投げ捨て、こう警句を述べたのである。「書物は人を博学にはするが、人間にするものではない。」これで医学的な説明は終わりである。次に私は形而上学的見地から実現概念の説明を行ないたい、と思う。
 私は実現概念の説明を行なうときに、簡単にその言葉の意味を記した。それを踏まえて、私は簡単な言葉でその意味を説明したいと思う。初めに断っておくが、実現概念と言う言葉は矛盾している。概念とはあくまで、前提に直観があり、その後に観念が沸き、そして概念になるのである。したがって概念とは死んだものでしかない。概念とは現実を前提としている。概念の目的とはあくまで現実の模倣である。これはディドロが「絵画について」で述べた「芸術とは、自然の模倣である。」と、言う格言とも共通してくる。もし文学と芸術を同一視するならば、そこには何らの矛盾もない。ショーペン・ハウアーも「意志と表象としての世界、第三巻」で文学と芸術との密接な共通点を論じている。私も彼の意見と同じである。「概念とはビンの中にたくさん詰まった飴のようなものである。ビンの中に後から飴を入れることはできる。しかしそこからは二度と飴を取り出すことはできない。」
 概念とは、覚えることはできるが、それ以上飛躍することはできない。概念とは固定されたものである。そこから無尽蔵に真理が湧き出ることは無い。真の知恵とは現実を親とし、そこから学び、それを概念に置き換えることを言う。その道程で、必要になるのが概念なのである。しからば、実現概念とは矛盾していることになる。しかしこの言葉は少なからず、真理を含んでいる。概念が現実化することは断じてない。だが現実を概念に変換し、その後に真理(真理とは現実の根本を深く洞察し、それを抽象化したものを言う。)に昇華した後にそれを現実と調和させれば、良いのである。これが実現概念の意義である。

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