更新日: 2010-09-12 02:43:43

旧約聖書 創世記

著者: ebmnbm

編集者: ebmnbm

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はじめに

第一章に関しての論考
 
第一節から第五節 これらの諸部分を現実的、科学的視点から解明する事はできない。まず神が天地を創造されたとあるが、これに類似する記述は数多の古代文献に見られる。確かに私たちより上位の存在(観念的、もしくは現象としての存在)は、存在する。これは断言できる。もっぱら哲学者が用いるのは、自然は全ての万物の創造主である、と言う言葉である。その自然の部分を神と称しても、何らの不都合はない。この部分、我々を創造したのは、神か? 自然か? で論争するのは、子供がおもちゃの取り合いで喧嘩するのと同じである。ようは、つまらない言葉遊びである。もし神の存在を実在として承認しようとするならば、汎神論を研究すれば良い。ライプニッツはある問題を解明できなくなると、いつも神に救いを求めていた。それらの中で後世の哲学者、自然科学者が自力で解明したものは、相当数ある。すぐに神に助けを求めるのも考えようである。しかし人知が及ぶ、限界も見定めておかなくてはならない。真摯な研究者が述べるとおりに、「我々は自然の教え子であり、決してそれを超越する者ではない。」我々の力が及ぶのは、真理、推測の域までであり、絶対的普遍性、絶対的存在などの自然を馬鹿にした戯言は無論、阿呆なスコラ哲学者が述べたくだらない夢想であり、唾棄すべきものである。他人の考えている事が分かり、なおかつ自分は全ての万物をすべる存在、この絶対的存在を我々は思い浮かべる事はできる。しかしその人物と同等になる事はできない。それに実際、物事を全て分からない人間にこの存在を精微に創造する事はできない。これだけでも限界は分かる。個人、個人が思い描く、神の似姿とは個性によって、必然的に歪められる。それを理解して、初めてあらゆる真理への扉は開かれるのである。 

 

STEP1

第二節に、「地は混沌としていた。」と、ある。これは現代科学の視点から述べて、正しいであろう。地質学、物理学の観点から地球誕生時の状態は、算出されている。だがこの当時の人々が、これを知っていたとは考えにくい。もちろん、無理やり科学的に聖書を真とする事はできる。しかしそれを行なった時点で、我々はこの書物を貶めている。なぜなら形而上学に属するこの本を、形而下の科学に還元するのは理に反するからである。
次に、「地は混沌としていた。」と、言う啓示の意味を述べよう。「混沌としていた。」、これは神、世を統治する真理なり、偉大なる人物が現れる前の世界の状態を示しているのであろう。いまだに動物世界、植物世界は混沌としている。だがその混沌は、自然の法則からはみ出さない。彼らは忠実に自然の掟を実行しているのである。弱肉強食や、食物連鎖、自然淘汰も自然の意志である。この混沌はこの人間が作り出す混沌と、意味が違う。動物は拳銃も作らないし、空母も持っていない。もし兵隊蟻が特殊部隊並の完全武装で、巣を守っていたら、子供もうかつに手を出せなくなる。そんな状況になったら、蟻の巣穴に水を流し込んで、逃げるのにも一苦労である。そしたら人間同士の戦争だけではなく、大規模な万物大戦争が起こるであろう。
さて、話を進めると、人間の場合の混沌も、確かに平時、動物世界とは変わらない。しかし人間界においては、理性などの高度に発達した器官があるために、一度人々を扇動し始める人物が出ると、それは戦争になるのである。ここは動物も人間も違わないが、圧倒的に優れ、肉体的にも精神的にも適わない相手に出会うと、人々は平伏するのである。ヒトラーが台頭したのは、彼の巧みな人身扇動技術と当時のドイツの他国に対する政治的、軍事的圧倒的優位のおかげである。これらの要素がたまたま揃い、彼は台頭したのである。この例は、旧約聖書が書かれた当時にも多く見られる。「ガリア戦記」のカエサル、この人物も知能が高く、勇敢であった。まさに人々の心を掴み取る素質を備えていたのである。ヒトラーと違うのは、彼があまり私利私欲を求めなかったことぐらいである。しかしその混沌の中においても、一面の真理、神慮が働いていた、と解釈しなければならない。次に続く、「暗黒が原始の海の表面にあり、神の霊風が大水の表面に吹きまくっていたが、神が「光あれよ」と言われると、光が出来た。」と、文章が続く。この前半は、利己心にかまけた生物だけの世界を示し、後半はそれに霊気を吹き込んだものを示しているのだろう。欲望に従うのは、自然である。先程、私が述べた一面的な真理とはこの事である。だがそれを乱用しすぎると、酷い事になる。動物の場合ならまだしも、理性が備わった人間がそれを乱用すれば、世界はもっと混沌とする。狡猾な戦略、戦術が牙をむく。さらには武器を作り出す、と言う事になる。しかしこの出来事が拡大する場合には、普通ある一つの因子が邪魔をする。社会と呼ばれる妥協策が邪魔をするのである。社会とは団結された集団を表す言葉である。だから蟻にも人間にもこの社会と言う言葉は用いられるのである。その社会はほとんどの場合、妥協で成り立っている。他人と遠からず、浅からず。他人に一見配慮を示す擬態を用いて、生活するのが人間社会である。純粋な社会は蟻ぐらいにしか見られない。彼らは縦社会に不満も言わず、黙々と役割をこなす。この勤勉さと率直さには毎度の事ながら、驚く。これぐらい素直に社会に順応できれば、我々も戦争のない世界を作れる事だろう。もちろん、社会を神の光と見ることは出来る。しかしそれでは、あまりに現実味がない。神が人間に賦与した光は、社会適応能力ではない。むしろ、その社会を作り上げるものである。たくさんの人々を野に放てば、彼らはいくつかの集団を作る。これはどこの世でも見られる。そこには必ずと言って良いほど、首長がいる。これはほとんどの組織に見られる典型的な、社会的縦社会を如実に表している。自然に社会を形成すれば、大概このようになる。いくつもの国の起源もこれと似通っているだろう。だが国となると、多少事情が違う。国を担うほどの人物とは、要は他の全ての集団を蹴散らし、それをまとめた者の事である。これには能力も関係するし、性格も関係する。しかしこれも神の光と解されるものではない。ここで用いられた神の光とは、「神々しい人物」を表している。

。」

STEP2 これが創世記、第一章、第一節から第五節までの解釈である。

第六節から第八節まで、「そこで神が、「大水の間に一つの大空が出来て、大水と大水の間を分けよ」と言われると、そのようになった。神は大空を造り、大空の下の大水と大空の上の大水とを分けられた。神は大空を天と呼ばれた。神はそれを見てよしとされた。こうして夕あり、また朝があった。以上が第二日である。」と、ある。この部分は前述した箇所と非常に似通っている。もしこの箇所を分析するならば、象徴化を用いるしかない。しかし象徴化とは民族、時代によって変動が激しいために安易には使用できない。したがって私はこの箇所には触れずに置く。
続いて第九節から第十三節までの解釈を行なう。この箇所で特筆すべきところは、第十二節のところである。この部分は、私には種の誕生、それに伴う個体の誕生が示されていると思う。哲学者はもっぱら、種と個体を大きく分けて考える。個体は種から離れることを許されない。だが種は個体から離れる事を許される。この意味は簡単である。種に従属する個体とは、いくらあがいても生まれ持った種族の特性を保持し続ける。これは個体間における変種の場合にも適応される。いくら変種であろうとも、その根底に必ずその基礎になった一定の種の特性が根づいている。これは動物の変種などを観察すればわかる。このような事は、昔にも見られたはずである。反対に種は個体から離れることができる。種は個体より上位の存在である。だから種の存続のために、個体を平気で見捨てたりするのである。これも容易に観察していればわかる。人が他人の死を平然と受け止める、もしくは一時悲しむが、その後はその出来事をほとんど忘却する事、これが種に従属する個体の特性である。後者の場合は、ほとんど人間にしか見られない。これは理性の働きによるものである。
第十四節から第十九節までの部分は、昼と夜の創造について書かれている。この部分は私が前に述べた闇があればこそ、光は存在する、と言う箇所とも結びつく。そしてさらに緻密な考察をすれば、「二つの大きな光」と、言う言葉が目に付く。この部分は主に昼と夜の違いを表しているように一見思える。だが私見では、この昼と夜とは時代の暗明を示し、かつ個人と個人との間の隔たりを表しているように思われる。歴史とは、そのほとんどが留め止めのない変動を繰り返す。簡単に言えば、平和、戦争、平和、と言うような循環を繰り返している。些細な文明の発展や文化の変遷はあれど、本質的に循環を繰り返しているのには間違いがない。このことを理解したければ、より大きな視野に立てばいい。人間の文明はすさまじい勢いで進歩した。しかしその弊害として、あらゆる因子が引き起こされている。環境破壊や本能衰退などである。これらは光と闇があるように、必然的に生じたものである。だが人間が滅びようと、自然は一向にたじろがない。北極の氷がとけ、地球の海面が上昇し、大規模な変動が起きようとも、それは自然の大いなる配慮の一環にすぎない。地球上に水が多くなると、水蒸気が発生する。それは雲となり、後に雨となる。そうすると、雨と大気の気温差によって、気候は寒くなる。その結果、また氷はでき、地球は新しい形となって、再臨する。もちろんこれは長い年月を見越しての話である。そこにいかなる生物がいようと関係はない。自然とは、不測の事態にも万全をきすのである。
後者は些細な事である。要は聖者とそれに続く人々の事を語っている。人は星を眺めない限り、夜の微光を知らない。聖者は昼の太陽のように神々しい。それは直視できない。それを緩和するのが、月である。月は太陽光の反射をえて、月光を放つ。その光を肉眼で見ることは容易である。したがってこの事は、時代を経て、再興する正しい教えの事を暗黙のうちに述べているのだろう。

STEP3

そして人間ごときが全ての生物を支配するとは、馬鹿げた見解である。どこを見ても、そんなことは行なわれていない。と言うより、むしろ動物達に支配とは言う概念は通じない。それに彼らは彼らなりに、一定の法則を持って暮らしている。そこに人間ごときがずかずかと入り込んでも何もする事はない。
第四節から第九節まで。この箇所は非常に興味深い。人に神の息吹が吹き込まれ、人の近くに生命の樹と智慧の樹を配置された。これは人が生まれもつ欲望をどこまで抑えられるか、神が試練を施したのであろう。
続いて、第十節から第二十二節まで。この部分は、神が人の欲望を満たす条件を整え、それに手を出さずに人が欲心を抑えられるのかを、試しているのだろう。人は近場に金や女がいると、欲望の趣くままにそれに手を出す。しかしそれは善とは程遠い。その事を神は試したのであろう。自己の欲を克服し、それを超越する。その難題を神は人に授けたのである。この事は、原罪にもつながってくる。キリスト教の秘奥「原罪」もこの箇所を起源にしていると思われる。欲心こそが原罪であり、それを感得したものが原罪を見つめ、新たなる道に踏み出す権利を有するのである。原罪とは「汝自身を知れ。」を施行すれば、あらかた分かる。自分の悪しき部分を直視する。それは煉獄の苦しみに等しい。しかしそれを行なわなければ、原罪を受け入れる事はできない。ニーチェが「最善の人間は、最悪の人間である。」と、言ったのもこれを鑑みての事であろう。自分の魂に存する悪しき欲望、それ自体が原罪であり、生まれ持った罪なのである。その欲心を知っている者は、決して自分を善人とは思わない。なぜなら、自分の中に存する欲心を知っているからである。その欲心に苛まれる日々、そしてそこから生じる罪悪感。そのために、周りから善人と呼ばれる人は、周りの人の意見はそっちのけで自らのことを悪人だと、断罪するのである。これが原罪の意味である。
第二十三節から、第二十四節まで。この部分はもっとも深遠な箇所である。アダムとイブの誕生を語っている部分。その論理的な文章は、素晴らしいの一言に尽きる。人の肋骨をとり、神はそれを女にした。この意味は、平明簡潔である。一見、これは男子が女性より優れている印象を与える。男の肋骨から生まれた女性。それはまさしく、女性より男性が優位な立場にいるように思える。男性の付属物として、女性が扱われている、そこに問題があるのである。女性と男性は相補って、生活を行なう。そこに不遜な態度で、敷居をまたぎ、男とは女性より優れているなどと言う言を弄すれば、それは傲慢、である。
たとえ、神の神慮により男性が女性を支配する事を許されるとしても、それはすぐさま頓挫する事になる。なぜならこの支配は、現実的ではないからである。女性は出産と言う大いなる役目を神から授かった。それに引き換え、神は男に理知を授けた。もちろん、出産は女性にしか出来ない。その大いなる役目を授かった女性を貶める理由がどこにあろうか?
私いつもそう思う。確かに女性に天才は存在しない。しかし彼女らは、出産と言う大きな役目を果たしているのである。しかし女性が出産できない場合もある。その場合にも相補う性質は存続する。女性の声を聞くだけで、心が和む事がある。それに彼女たちは話す事にかけては一流である。女性は感情的になりやすいが、その感情発露のおかげで彼女らは、語学を男性より早く習得する。その反対に男性の場合は、論理的に物事を推し量るために、語学を習得するのを困難と感じる。「男は理想を追い求め、女性は現実に生きる。」女性は処世術に長けている。反対に男は生活が粗雑で目も当てられない場合が多い。それらの事を鑑みれば、男女は平等ではない事がわかる。男性は理知的で女性は情に厚い。この二つの違いは重要である。男の弱い部分を天使のような女性が包み補い、男は女性の悩みを黙って聞き、女性に客観的な意見を述べる。これはいつの世にも通ずる真理である。女性の快活さ、それこそが男の理性的、厭世的な考えを打ち砕いてくれるのである。

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