更新日: 2010-09-11 13:44:19

国家

著者: ebmnbm

編集者: ebmnbm

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はじめに

 私のこの論文は常に哲学的思索を原典とする。すなわちこの論文を書くに当たって国家という共同体の骨組みを哲学に求めたわけである。もし私がこの理由をこまごまと述べるとすれば、それはこうなるであろう。「人々が右往左往する日ごろの世界的情勢という陳腐な言葉に普遍性は無い。やもすればこのことは百年後には忘れられる愚かしい自己撞着である。」したがって私はこの国家という共同体が存在する限りにおける、普遍的規則を出来る限り述べるわけである。しかし私が掲げる国家的真理、これも所詮は抽象的理念でしかないが、このことに必然性はない。なぜなら人という主観的生物の集まりが国家という事象に対応するのは必然的ではないからである。本来人というものが自分の目で見える物以上に世界の広がりを拡張できないように、人とは生まれながらに利己的である。だが国家という抽象的、不確定なこの言葉にも「平和を維持するという」普遍的妥当性は無い。しからばそのような共同体が永続的に公共の平和を保つということも考えられないわけである。私が述べる理念もそのような永続的という夢想に頼るわけにはいかない。また私が述べる国家原則の真理とは、その理念を事象に採用したからといって、そこに恒久的原則が打ち立てられるものでもない。私が掲げる真理、それはいつの時代においても天才によってしか遂行されないものである。これから先、もし世界が混沌とした物となり、国家共同体の存続が危ぶまれるとき、その世界は修復される必要が必然的に生じるであろう。その動乱においても、利己心に揺り動かされない天才達は平和という一時の安定を追及する。よってこの私の論文は一般向け、大衆の娯楽用のものではない。これは国家という利己心によって揺り動かされてはならない現象の根本を示すものであり、またそれを遂行する天才達のために捧げる書物である。
 

STEP1

 感情とは社会を形成するものである。社会というあまりに限定的な集団に国家という言葉は当てはまらない。しかし私が聞くには、どうやら人々は社会の延長が国家になると考えているようである。だがこのことは間違いである。反対に社会とは国家の下に組み入れなければならないのである。社会と国家とはかなりの部分で倒錯する場合が多い。この倒錯についてはこの場所で詳細には述べないこととする。それは追々この論文の中で分かってくることであろう。

STEP2

 まず感情とは、主観的感情と感情が行動となって現れる客観的感情の二つに分けられる。主観的感情とは、自己の認識の段階における、怒り、悲しみ、不満、好意、尊敬などの総称である。総じて言えば、人の感情の発生の起源は常に主観的感情を原点とする。事実人が持つ感情とは生来上主観的なのである。よって主観的意識の中において感じられる感情が根源としてあり、その後に人々は任意的にその感情を行為、すなわち客観的感情に移行させるのである。
 そして付け加えると主観的感情とは、行為に移行した場合、すなわち客観的感情になった時、そこには一過性、不確定性という要素が出現する。例を出せば、ある人が怒って、暴れたとする。彼が落ち着いたあとにその理由を問いただすと、その間のことを覚えていないということがよくある。このことからも分かるように、感情という行為は常に意識的で無いためにいつも一過性なのである。しからば無意識的な行為である感情には当然不確定性というものが生じるわけである。人が考えているときには自分のうちに目を向けているからそれは意識的である。反対に人が外的な用事に振り回されて何も考えていないときそれは無意識的である。もしそこに感情行為に走るきっかけになった最初の理由が存在したとしても、彼らはその行為を終えたあとに満足感というより、むしろその理由の脆弱さを知るのである。なぜならその理由がすでに主観的認識を根拠としているため、彼らの行為はただ自らの利己心を環境に強制しただけのことだからである。また彼はこの理由の正当な根拠を自らが証しているという、愚かな根拠に従ったとも言える。これは主観という自由を有する唯一の国と必然性という規約に縛られたこの世界との間における倒錯から生まれる怠慢である。どちらにしてもこの現象は徹頭徹尾自らの利己心によっている。したがってこのことは国家にとっては不理解な個人の利己心の拡張というものでしかない。国家とはこのような個人の自由をある程度抑制し、そこに公共の福祉を生み出すものである。
 また感情とは、常に環境に対して強制を試みる。例えば、私がある人との話し合いにおいて、あまりに相手が私の話を理解しないので、いらいらすることがある。そのようなときに私は自分をこう解釈する。私が怒るその原因は、自らの欲が傍受されないその環境にあると。もし私がそこで感情的になって周りの環境を抑圧し、無理やりにでも相手を征服すれば、一時の満足は得られたであろう。しかしそのようなことは国家には許されない。なぜなら個々の人々が感情的に行為をした場合にそこにあるのは混沌、騒乱のみであり、それは自己の欲望の闘争上となるだけだからである。これを言い換えれば感情とはまた保守的であるといえる。例えば、ここに牢屋に閉じ込められた人がいるとする。まずその人はおよそ四八時間以内に発狂する。この発狂にしても往々にして環境に適応する段階で行われる行為である。その後も断続的に発狂し、だんだんと発狂の数が少なくなってくる。ここに至れば一定の人はその環境に順応したこととなる。反対に順応できなかった者は廃人となるだけである。しかしこの環境に順応できるものを調べると、想像力の豊かさ、さらには状況把握能力が優れているなどの感情面ではなく、知能面での優秀さが際立つ。他方廃人になるほうは、日ごろから感情的であり、孤独に耐えられないものが多い。したがって日ごろから感情的な人間は、新しい環境に順応するのも極度に嫌うのである。ようは彼らみたいな人物はひとつの場所に安住したがる、保守的な人間なのである。実際これは 感情行為のみに頼って生きてきた人間の哀れな残骸のお話でしかない。
共感という現象も感情の類に入る。ここにおいて前に述べた感情の一過性、不確定性というものが一段と明白に見て取れる。共感というものは感情の不確定性がたまたま外界の事象と一致したものでしかない。それはまた安心という感情行為を誘発する。しかし感情行為とは無意識的なものであり、計画も何も持たない。そのような不確定性とは共感によって揺り動かされた大衆の動向を見ればよく分かることであろう。彼らは自らの義務を見失い、権利ばかりを主張する。この大衆が巻き起こした惨事というのは、歴史上にいくらでも点在している。例えばアインリッヒ・ヒトラーが起こしたユダヤ人虐殺にも大衆の共感というものは大きく関係してきている。彼らはヒトラーの感情に訴える弁舌に安心を求め、そこに将来的な惨事を見出せなかった。そして最終的に彼らはなんらの正当な根拠すら有せずにユダヤ人を虐殺した。その光景を目にして人々は後悔したのだろうか。いや違う彼らはまた人の集まる場所に逃げ込みそこで自分の安心を得るために、共感し合い、そしてまた自分を正当化したことだろう。
 

STEP3

また日本が起こした大東亜戦争における天皇崇拝もこの例に漏れない。彼らは天皇という偶像化された人物に安寧を求め、他国を蹂躙し、そして多数の他国民を虐殺した。そのことによって彼らは何を得られたのだろうか?この惨状は彼らに虚栄心の満足を覚えさせた。弱い人間というのは自分自身を保つ能力すら持ち合わせていないために、他人と比較することを好む。ここには利己心しか存在せず、国家における公共の利益とは相反するといえる。よってこの戦争から大衆が得たものは、多数の人の屍が彼らの欲望を満たしたことに過ぎないといえる。なぜこのような利己心のとめどない波及が横行するのであろうか?しかしこの質問の答えはもう出揃っているはずである。このような惨状が生まれる原因はけっきょく自分に帰すのである。なぜなら本当の安心とは自己の思慮によって、初めて生まれるものなのであるから。
 ここで人がよく間違える問題の答えをひとつ述べておこう。安心と安全とはまったく意味の違うものである。安心とは常に認識の段階に存在する主観的なものである。反対に安全とは外的状況を主とした現象と現象との関わり合いから生まれる因果性によっている。ようは安全とは実際人が人に危害を加えるというのを出来る限り防ぐという、物理的な問題なのである。安心とは認識の段階の問題であるがために、その解決方法は自己のうちにしか見出せない。反対に安全とは心のうちに平静を保ち、周りの状況を的確に判断すれば得られるものである。事実この安心と安全とは矛盾し合っている。脆弱な理性の持ち主の人は安心を他人に求める、すなわち共感に走るわけである。その時にその人は一時の安心を得られはするが、実にその安心は長続きしない。なぜなら彼らは本来自己のうちで解決するはずの安心を外的状況に求めているために、それは感情行為によって得られた一時の安心でしかないからである。私が最初に述べた主観的感情とはそれが現象する前に、抑圧、もしくは消滅させることが出来る。しかしこのようなことが出来る人間の数は限られている。ほとんどの人々は考えることを知らない。だがこの理性的な人は自らのうちで常に思案し、また反省を行なっているため、この原理を容易に、とはいかなくてもある程度の年月をかけて習得できるのである。少なくとも国家の任に就く者にはこの素質が必要である。国家を担う構成員の資質、このことについては他の章で詳しく説明したいと思う。
しかし私がこのように捲し上げて述べてきた感情の悪質について異論を唱える人がいるかもしれない。「感情にも良い性質があるではないか、同情や尊敬という。」だが私はこのことについてこう述べるに留まる。「同情というものも所詮は、利己心からでたものでしかない。それは感情の派生型に過ぎないと言う意味である。人に同情するというのも、けっきょく共感なのであり、国家から見ればそこにはなんらの有益なものすらない。いくら人々が殺人を犯した死刑囚の悲しい人生を知り、彼に同情したとしても、国家には関係ないことである。もしあなた方が彼の恩赦を要求してもそれに答えるわけにはいかない。なぜなら法の意義に背くからである。法の意義とは犯罪者を見せしめとして、粛清し、そして未来に犯罪を防止するということである。これを破り続ければその国は治安の維持が困難となるであろう。よってあなたたちの感情論は公共の利益を脅かすため却下する。」

STEP4  この章の締めくくりとして総論を述べたいと思う。

私が述べた感情の性質、一過性、不確定性、そして環境に対する強制、これらの根本的原因は欲にある。それは感情というものが自己の利己心の表れ以外の何者でもない証拠でもある。それはまたこの感情が社会というものを構成するための本能機構のひとつであるからともいえる。共感という現象が起これば、そこに孤立的とはいえ集団が生まれる。その集団は決して国家には結びつかず、さらにこの集団は時に国家政策を妨害する場合もある。そして彼らは社会と国家を履き違え、勝手な方向に歩みだす。すなわちこれは自らの利益のためにということである。今に見られる市町村や州間の政治的抗争、これは長い目で見て国家に対して不利益しかもたらさない。彼らは州知事という肩書きにおいて、票集めのために罪人を釈放し、また流浪者を見殺しにする。これは正に職権乱用である。しかしこの根本には彼らの脆弱さ、そして大衆の感情的行為に賛同するという痛ましい現象が付きまとっている。法と感情とは相容れない、このことについては後で詳しく述べるが、実際にそうなのである。だが、感情にひとつ有用な性質を付け加えるとすれば、それは個々人の所有権の確立要項である。すなわちこれはイェーリングが「権利のための闘争」で述べている個々人の利益、及び権利を勝ち取るためのひとつの機構で、という意味である。この所有権の侵害を持って、人はいかなる場合にも感情的になるともいえる。しかしこのことが暴力沙汰に発展することも往々に存するのであって、それを防ぐためには司法機関の制定が必要である。この移行が行なわれた時点で感情というものの本来の機能は失われる。しからばそれが法の名の元において、裁かれるのは自明のこととなる。
法とは公共の利益を優先するものであり、そこに感情という利己心の塊を据えるわけには行かない。
 国家的見地から言って感情的に動く人々に賛同するのは非常に危険であり、また国家体制の崩壊をも意味する。

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