更新日: 2010-09-11 10:21:00

本能について

著者: ebmnbm

編集者: ebmnbm

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はじめに

 私がこのように提唱した人間の感情が経験に及ぼす相対的な働きの利点や欠点を正確に述べる前に自然本来の経験の意義を考察すべきであると思う。なぜなら動物においてその経験はまさしく抽象的概念に仲違されることなく本来の形相を示しているのであり、その後に人間における経験の有効性を説いたほうが純然たる物であろう。
経験と感情を本能にそって説明すれば、不の感情はダーウィンの「種の起源」によって論じられた自然選択によって絶滅しそうな動物に類するものであり、生の感情はそれに打ち勝つものにも見える。人が怒るのは、その人の心理的領地が侵害されたことを示している。これは動物が外的に対して起こす行動に類するものであるが、動物と人間の違うところはその人が侵害されたと思う、すなわち認識の段階から発せられるものであり、それが誤認である場合も多くそこに抽象的な概念の欠陥が見られる。
 動物における経験の意義とは、肉食動物にしてそれは親から教えられるものが大部分である。これはライオンが親から草食動物の狩を教えられることに準ずる。もしライオンが親から早い段階で引き離された場合彼らは狩を知らず、餌が取れないため生存が出来なくなる。これは彼らが餌になる動物の知識をなんら持っていないために起こることである。この彼らの知識とは表象が促す動機に関係したものであり、彼らの経験はもっぱら直観に依存していることがわかる。彼らにとって目に見える世界が全てであり、彼らに概念というものは存在しない。よって動物の経験というものは直観に頼った獲得反射であるといえる。

STEP1

 だが植物にして彼らは経験の範囲外にあたる本能しか有していない。この本能というのはあまりに経験に従順になりすぎた我々にとってまことに不可解に見える場合がある。これはよく童話などに書かれる植物に人間の感情や経験などを付与し、わざと人に親しみを持たせ易くする場合などからも分かるように、我々にとって単純に本能のみを観察することは容易ではないのである。しかし本能が経験の源泉にあることは否定できない。ここで補足ではあるが、このようなやも人々に経験から本能が生まれたなどという認識を持たせないためには、まず経験より先に本能があり、その後に経験が創られたということを述べるべきであると思う。このことはいくつかの簡潔な事実を提示すれば、すぐにわかってもらえると思う。たとえば植物の前に草食動物が出来るはずがないのと同じように、少なくとも本能より環境的教育を強制する経験というものが存するはずがないのである。これはどういうものかというと今西錦司が「生物の世界」で述べた「植物がそこに出来るにあたって植物が環境に順応したと共に、その時点で彼らはその後に出来る草食動物の環境を創ったのである。」と同じ意味に当たり、そこには個体の生存というより種属の保存、さらには後に生まれる生命のために環境を整備するという自然の意志が見える。この種属の保存というのは、人間においても見られることである。例えば体の生殖器や性欲などに見られる。やも私がこのことを述べたからと言って人の行動が性欲から全て起こるなどというフロイト流のことをいうつもりはない。人の行動が大抵欲から出ることを認めはするが、それだけではインドのバラモンなどに見られる禁欲、欲を嫌う性質が説明できなくなるのである。少しその性質を紐解くと、性欲と精神の間には一定の法則が見られる。それは循環気質に見られるような性質である。ひとたび精神が活発になると、反対に性欲は抑制される。また性欲が活発になれば、今度は精神が沈静化する。この相反する交互作用は本能に精神が反発している証拠である。これは意志の否定に当たるものであるが、このことに
 私たちは人間という高慢な生き物の世界に生まれ、そして虚栄心によってほとんどの人々は自分たちより弱い動植物を蹂躙する。しかしその人間にも本能はまだ顕在するのである。例えば人が生まれてからある一定の期間を経ると、歩き始めるような、本能に密接に関係した出来事が通常でもわれわれの目の前で起こっている。遺伝学者が言うような「私たちの経験というものが遺伝に左右されているのは間違いのない真実なのである。」という言葉はこのことを如実に語っているのである。ただし私がここで述べる主題は人間における経験であり、それ以外の何者でもない。人が情緒不安定などによって強く食事を拒むことなどに見られる本能の否定、これらに関連する話題が主目的であり、生物学的議題が主目的ではない。しかし我々の前に両親がいるように、その前提として本能を一通り検証しなければならないのである。
 これらの理論から先ほど単純といった本能がもっとも精査があり、自然に沿ったものであることがわかった。本能は動くことが出来ない植物においてその役目を正確に務める。むしろこの生を維持する本能はその役目を増長する場合がある。植物がある環境に適応するために突然変異を繰り返すように、そこには「生への躍動」が見られる。だがその効果が意識的な理性及び、知性にまで波及しているという科学的見解はいまだ出てきていない。確かに知能指数の高い親の子供は統計的傾向から見て知能指数が高くなる。しかしこのような見解はなんらの解決手段すら提供しない。なぜならこの知能指数とは環境的素因によっても高くなることが証明されているからである。もしそれが無ければ人類はずっと一様な知能で育ってきたはずである。これが行動によって獲得される反射なのである。

STEP2

 しかし行動する動物に至っては本能が経験に取って代わり、そこでは多少の誤差が生じるのもまた事実である。この多少の誤差とは我々の記憶に似通った性質を持っている。これはパブロフの「大脳半球の働きについて」に書かれている犬の連鎖反射が我々にも見られるということである。だがこの連鎖反射全てを我々に適応するわけには行かない。この理由については後述する。この誤差は直観に頼るために起こることであるが、それはユクスキュルが「生物から見た世界」でいう作用トーンの誤認識である。この直観とはショーペン・ハウエルの言葉で言えば、表象としての世界に当たるものであり、それはユクスキュルの環世界に類するものである。なおここに至ってもその誤差は人間における抽象的概念の把握より少ない。これは抽象的概念によって複雑化した現象を思考がうまく解析できないために起こることである。このこんがらがった頭の状態を人は極度に嫌う。これを嫌う理由を人々は、疲れや面倒くさいなどというが、その背後の本質にあるのはこの抽象的概念が咄嗟の本能的判断を妨げるからである。これは身に危険が迫っているときに対応できなくなることを意味する。このことは最も現在において過酷で危険な労働を強いる軍の言葉にも表れている「作戦概要の説明は単純、正確に行うこと。」そもそも意識的なる言葉には葛藤が付きまとう。反対に無意識的なる言葉には何も無い。すなわち我々が本来の意義で本能を解釈するならばそれは純粋に無意識なものであるといえる。しかし動物にも見られる通り環境適応に対する葛藤がある。これがあるおかげで進化は存在するのである。この環境に対する関係は人間の場合、感情が務める。そこには常に利己心が存在する。これは無意識的に環境に適応しようと努める本能的感情のことである。言い換えればこのことはこう言えるだろう。「欲望の激しい人ほど感情的である。この感情はむしろ個人的というより集団を重視する動物に多く見られる。」と。人間というものが、意識をはっきりと感じれば感じるほど、我々は個人を重視し、環境との葛藤に苦しむ。生物が進化を遂げるために淘汰を必要とするように、我々が進歩するためには意識的な行為が必要である。
もちろんこのような演算から本能とは利己心の塊だともいえるかもしれない。例えばライオンがシマウマを狩ることや、キリンが草を食べることがそうであるように、このことから言って彼らは自分の利害関係しか見ていないと思われる。しかしそうともいえないのである。私たち人間には理性があり、その作用によって願望、妄想などの現象が見られる。これは私たちにとってもうひとつの利点を増やすといえる。それは理性が描く意図によって計画を練り、自分の利己心が環境を超えて発展し、それを充足させるということである。これは私たちにとって一面的な真理で欲望の発散を手助けする役目を担っている。他方動物には理性がないため、周りの環境に四六時中左右されている。彼らは直観という認識形式しか持たないため、この世界はこの能力以上に広がりを見せないのである。だから彼らは憎しみなどの感情を持たず、唯自分の直観形式に依存し、利己心を満足させている。彼らは我々人間のように極度に利己心が強くなく、己の能力にそれが比例しているのが分かる。実際この利己心の延長は手段の多寡による。よってこのことから彼らに我々の利己心なる意味を与えるのではなく、本能と与えるに至ったのである。もともと本能といえども利己心に根ざさない部分はない。だがそれがほかの生物との関係上、うまくかみ合わさっているだけである。基本的に本能とは種に作用し、理性は天才という個人及びその類者に影響力を持つ。本能とは万物不変の真理であり、天才の理性とは人間における特殊的真理でしかない。

STEP3

 利己心が体を目的として、行動する限りその利己心は直観範囲にまでしか及ばない。ひとたびそれが道具という手段を得ればその延長は手段の優劣によって拡大、縮小の一途をたどる。そこには、原始的な人類の利己心が見えなくなるであろう。天才以外には。
 本能の概要はこのあたりで終わりにするが、ここまでの記述でも本能と経験の違いが少しおぼろげながらも判ってきた。私のこの言う本能とは本当に言ってもっとも人間に顕著に現れる理性に深く関わっているのである。例えば我々が言葉を話すときや他人の本を読むときに理性は使われる。しかしこの状況の使われるとは本当の他に対する依存関係、使役を表すものであり、そのようなことを続けていると人は突如として空虚感に襲われるのである。そのときに本能は我々に二つの選択肢を示す。もし我々の周りに刺戟、肉体的享楽などがあれば人は迷わずそこに手を出してこの空虚感を解消するだろう。反対にそれがない場合人は自ら理性を従え、それを解消する。これは当然想像や計画などの抽象的解釈を示す。物分りのいい人々には分かったと思うが、周りの環境がこのような肉体的刺戟を提供すればするほど人の理性とはその機能を失っていくのである。よって過去の賢人たちはこのことを堕落といった。言葉通りに理性といえども本能の一部であるからして、このことを加味した賢人は本来人に備わった機能を活かさないような行いを続けるものを堕落した人々といったのである。生きとし生ける物とは自分の環境に慣れればそこに安住したがる。その環境を大衆に提供し続けた我々天才が本当は間違っていたのかもしれないと私は時々思う。
「いくら太陽が人々を照らそうと、木陰に太陽は微笑まない。いくら月夜の夜がこようと湖面には月がうつる。木々がざわめく丘の上、けだし私はこの道を行く。その身に風を受けながら。」
 

まとめ

世界各国の哲学者等の文献参照

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