更新日: 2011-07-20 14:21:43

哲学史

著者: ebmnbm

編集者: tenjin1900

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はじめに

 まず、科学とは常に証明を必要とする。そして、哲学とは明証を重要視する。科学の外縁を述べれば、科学とは常に不確実な諸々の現象を相手に、その現象を解明する糸口を見つけ、その糸をたどっていくものである。したがって、科学は、現象という限られた存在形式を根本に据えて、思考錯誤を繰り返す学問である。ただし、科学といっても、一般の科学とは異なるものがある。それは、幾何学と心理学である。幾何学は、ユークリッドから始まり、ユークリッド幾何学は、明証性を伴っていた。いわゆる、直観に頼る学問である。非ユークリッド幾何学にしてもそうである。リーマンによって、打ち建てられたこの分野は、最初は、証明を必要としたが、技術の進歩とともに、明証にとってかわった。地球を、宇宙空間から見て、二つの直線が交差する場所が、北極か南極になるのが、分かったのは、ごく最近である。幾何学とは、常に明証性を前提としなければならない。なぜなら、幾何学の創始者であるユークリッドが、そのことを無意識か、または意識的に明証性を前提としているからである。プラトンの「国家」に出てくる数学も、今で言えば、幾何学である。これが、簡単な幾何学の説明である。次に、心理学の話に移りたいと思う。心理学とは、まさしく、ミシェル・フーコーが述べたように、まず、科学であるか否かを問わなければいけない学問なのである。アメリカでは、実証心理学が主たるものであるが、それは、真に奇妙なものである。人の内面を実証するなど、不可能事である。それを知らずして、アメリカ人は、土足で、心理学に乗り込んできた。これは、不可解でもあり、了解不可能な出来事である。そして、WissenschaftとPhilosophyの違いに、着目するならば、それは、当然、不合理をきたす。現今の仏教が、因果応報説を唱えながら、自然科学の侵入によって、仏教的思想が、崩壊の危機に瀕しているのも、また、事実である。しかしながら、哲学と宗教は、カント以降、分離されたものになっている。ただし、形而上学観点から見た、宗教の意義については、常に哲学者は批判を行なっている。だが、自然科学は、宗教と完全に袂を分かち、独自の道を現在、歩んでいる。これは、中世の宗教裁判の終焉と共に、突如として、始まったことであり、反駁の余地はない。
 科学とは、あくまで、証明を必要とする。哲学は直観を元にする。そこに、大きな違いがある。

STEP1

 私たちの経験に対する感覚は、いくら科学が日進月歩を遂げようと変化をしていない。
これは科学が概念による諸法則の秩序を目的とし、他方経験という目に見えぬ神秘的な原理がそれに呼応しまいと抵抗しているようにも思える。いまだ私たちは経験という目に見えない原理に縛られ従属している。しかし科学といえどこの経験から生まれてきたことに異論はない。科学とは、元来現象を観察し、そこから仮説を抽出し、推論の連鎖によって、成り立つ。要は、因果の根拠律に支配されているのが、科学なのである。それから、そもそも我々は何を持って経験の有意義な認識を得、生活を行えているのだろうか?私たちがいくら個々人の多様な経験を主張しようとも、それは集団という渦の中で何の意義すら勝ち得ない。事実、私がここに生きているのすら、不確かなことではないか。だが、天才と呼ばれるものたちの中には経験が忽然と姿を露わにし、集団の中でも輝きを放つ。私たちはこのことから必然的に大衆と天才の経験的差異を導き出す。しかし、いまもってこの経験的差異とは、我々には理解しがたいものである。さらにこの経験的差異とは個々人の違いに帰せられるものではないのである。彼ら天才の中において経験とは何を表象し、彼らに何を与えているのだろうか? 
 

STEP2

これを解く鍵として、私はここで過去の賢人プラトンの語句を引き合いに出させてもらい、それをイデアに値するものだという。
これは時間と空間という制約に縛られた現象のうちに出る物事の数多性の根本である。だが数多性に惑わされるうちにこれは見出せない。これは時間と空間に制約されない自然の意志に該当するものであり、それは全ての現象の元である。過去、現在、未来へという、時間を抜け出てこれは存在するのである。ここに至ってイデアは絶対普遍のものになる。しかしイデアは我々にはその数多性となってしか見えない。これから私たちは単一普遍のイデアをつかむことを許されていないことが判る。このことから天才が垣間見るのは、絶対普遍のイデアではなくとも、(これはおそらくプラトンのいうイデアではないだろう。)ひとつの普遍的真理であり、それが彼らに物事の解釈を容易にするのがわかる。なぜ天才ですら絶対不変の真理がつかめないか?というとひとつの理由としてその航路の所々に先入観が邪魔をしているといえる。この先入観はこの論文でも詳しく述べるが、それに惑わされない人は一人すらいない。他方このおかげで日常が送れるともいえる。この真理とはイデアが時間、空間によって現象したものではあるが、そのことをひとたびつかめばそれは毎度のように時を越え、繰り返される事柄だとわかるのである。不明確ではあるが、言葉の珍妙な言い回しによってイデアと数多性を区別すれば、イデアとは利己心に縛られないものであり、数多性とは利己心に縛られるものであるともいえる。よってこのことから大衆に見られる利己心によって移ろいやすい印象は数多性に帰属する。ここで数多性の現象、すなわち我々にあたかも毎回違った様相を呈す現象とイデアの形相を備えたこの真理は区別される。本当の哲学者たる者はここまでの説明で十分にイデアについての洞察を受け取ったはずである。しかしこのままでこの説明を終わらせるのは私にとっても読者にとっても不遜なので、このことに関してもう少し紙面を割くのをお許しいただきたいと思う。さて日ごろ我々がどのように暮らしているかというと、基本的に我々は知覚によって事象を見るとまずいえる。その後に理性を介して事象を観念とするのである。この論文を読むに当たって、重要な座を占める理性、この概念を見通しやすくするためにひとつここで弁証法という例を持ち出して説明をしたいと思う。理性とは短的に言って概念を形成するものである。それは言語の根本的原因に当たり、そこからいろいろな言葉が派生しているに過ぎない。その概念を巧みに組み合わせることによって生まれたのが、弁証論である。これは対話という限定的状況に用いられる。この技能は他人と話し合いばかりをやっていても身につかない。それを身に着けるにはある段階を順々に通らなければならないのである。当然最初のステップには他人との対話が必要である。対話が終わった後、自らの思慮不足で説明できなかったところや、相手の意見の間違いをうまく指摘できなかったところを「どういう風に話せばよかったのか?」と自分自身に問いかけ、そして熟慮を繰り返す。これも理性の仕事である思想的概念の統合である。この段階を何回か踏めばおのずと対話の呼吸はつかめ、話がうまく出来るようになる。しかし対話というのは持続的な現象のため、ある意味直観的であるとも言える。だから私は呼吸という言葉を用いたのである。これらのことは概念と直観が人間にとって切り離せないものであることを明証している。この二つのバランスがかければ、それは白痴の人間か、頭の固い工業系の学生、どちらかを生み出すことになる。しかし弁証法というものは徹頭徹尾人間相手であるため、そこには虚偽や不正、時には暴力沙汰まで入り込むときがある。反対に自分や自然は当然嘘をつかないので、じっくりと思考、思慮することによってその真理が見えるようになる。結局このような話し合いではあまりよい結果が生まれないのが常である。はっきりいってこの手の手法は推論の連鎖が多く、真理にはたどり着けない。ただ実生活やビジネスにおいては非常に役立つので習得しておいて損はないだろう。まあそれだけのことである。
 いわゆる、科学と哲学の違いは、根本的な問題として取り上げられてきた。私が、述べように、科学は、経験に即したものである限り、哲学は言語の限界にまで、さかのぼる学問である。以上が、科学と哲学の違いである。

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